1997年7月11日金曜日

住友における従業員の位置づけについて

1997.7.11

「住友」の事業において、従業員というものがどのように位置付けられていたのか、住友家、経営者との関係はどういうものであったか、いわば住友のコーポレートガバナンスはどうであったかということについて考えます。

一言でいえば、住友家、経営者、従業員の三者は、「家(イエ)」的な運命共同体意識で結ばれていたことが大きな特徴であったように思います。それが同じく住友の特徴でもあった「均等主義」や「平等主義」に結びついているようであります。善し悪しはともかく、このような運命共同体的な「家」的結束が住友の強みとなり、明治維新の直後と第二次大戦敗戦後という過去二回の大きな歴史上の変革期(構造転換期)を乗り切ってきました。

株主、経営者、従業員などのステークホルダーズ同士の利害がうまく調整されて、事業の運営がなされてきたのです。「家(イエ)」的関係といえばとても封建的ですが、ステークホルダーズ間の共同体的関係といえば、優れて今日的です。

橋本内閣のかかげる「六つの改革」は、わが国にとって、明治維新、第二次世界大戦での敗戦に続く三つ目の大変革であるといわれています。過去の二回の大変化を住友が如何に乗り越えてきたのか、コーポレートガバナンス(企業統治)の観点から、参考になるところを抜き出してみました。

1 住友の運命共同体的性格

1) 明治以前の封建的「家」制度

住友の伝統を知る上で一番大切な資料は住友家の家法ですが、この家法を読むと、明治時代に制定された部分であっても、江戸時代からの封建的性格を根強く残していたことがわかります。

まず雇用関係ですが、これは雇用期間中のみならず、退職してから以後も続く終身的な関係となっています。退職者は「末家」と位置づけられ、本家から家督金を付与されました(末家制度)。実際の運用面では、この家督金は住友家に預けられ末家には毎年利子が与えられたので、従業員に対する終身年金とも見なすこともできます。

さらに、この「家」的な雇用関係は、終身関係という時間的な広がりに加え主家、従業員の家族にまで及ぶことで、平面的にも広がりを見せていました。明治25年に制定された「出付婦人内規」によれば、雇人(従業員)、末家(退職OB)の配偶者も本家の奥様と一種の主従関係を結ぶことが規定されています。家族ぐるみの雇用関係であります。(商社の海外派遣員の家族同士で、いまだにこれに近い家的関係が散見されることもありますが、時代の最先端を行く商社の海外駐在員家族同士の付き合いのなかに「家」制度の片鱗が残っていることは興味深いことです)

こうした「家」的な人間関係は、一方で良い面もあり、従業員に対する福祉にもつながっています。この傾向は住友では特に強かったようです。ほかの商家では手代が病気になったらお払い箱とされたようですが、住友では決してそのようなことはせず、家法にも「手代が病気になったときには、よく看病すること、病人を粗相に扱うことは主人に不忠を働いたものと見なす」とわざわざ明記されていたことは注目されます。(総手代勤方心得)

一方で、能力主義もありました。「子飼であっても無能なものには重い役を与えない」との規定も見えます(総手代勤方心得)。この能力主義は、一見、封建制度とは相容れないようですが、日本の封建制度のひとつの特徴でもありました。すなわち「お家」の危機にあたっては、人事は縁故・血統よりも能力を重視し、能力のあるものに経営をまかせることで「お家」の存続を図るという考え方であります。(日本の封建制度のもとでは、養子縁組みが頻繁に行われましたが、それは能力重視とも考えられます。諸外国では養子による家督相続は珍しいとのことです)

また本店及び別子銅山の雇員、雇い人に罰金法を制定したことも注目されます(明治6年)。借金を返済しない者などは、住友家が自ら裁きうるとしたものです。日本という国家のなかに住友という「ミニ国家」を作っているともいえ、これも日本的な「家」制度の特徴と言えます。

注目したいのは、従業員のランクによる給与格差の小ささです。別子銅山においては、ホワイトカラーは、手代と呼ばれ、手代の下に子供、小者、下男と呼ばれる雇い人がありました。明治2年の給与表を見ると、手代の最高位の老分の月給が30両、一番下の子供、下男が2両となっています。最高位と最低位の格差倍率はちょうど15倍でした(須賀俊夫『住友の経営史的研究』)。これは欧米などの社会と比べると非常に小さい格差であると言えます。現在、当社の22歳大卒新人事務職の年収330万円であり、その15倍の相当金額は約5000万円となります。社長のお給料までは存じませんが、明治2年当時の給与構造とそれ程大きな違いはないのではないでしょうか。

2) 明治以降も根強く残った「家」的性格「均等主義」

この平等主義は長く続きます。歌人で住友マンであった川田順の『住友回想記』に次のような文章があります。

<社員の給与の決め方には三つの主義がある。功利主義、均等主義、折衷主義。三井物産は功利主義の雄なるもの。住友は均等主義の代表的なものであった。勤務せる店部の別によって給与が違うことも、まずなかったといっていい。また、儲けた店部でも損した店部でも、おしならして賞与を出した。要するに、住友人は、各自の勤務せる会社のいかんに関わらず、居住せる土地の都鄙に関わらず、住友のために同じように苦労しているのだから、同じように報酬すべきだ、という道徳的な観念が根強く一貫していた。>

川田順によると、当時の住友の理事の給料水準は、三井、三菱と比べると格段に安かったようで、当時の大阪税務署長から「さすが住友さん、川田(理事)さんの給料は三井の支店長より高いですな」といわれたが、その税務署長は川田順の「年収」を「月給」と勘違いしていた、という笑い話のような実話があったとのことです(『住友回想記』)。平等といっても水準の下の方に合わせる平等であったようです。

同じく住友に勤めていた源氏鶏太は、ユーモア・サラリーマン小説や名著といわれる同氏の『新サラリーマン読本』を書いていますが、これらの文章に当時の住友の「ほのぼのとした」企業文化がうかがえます。

2 時代の大変動と住友の対応

さてこのような伝統と企業文化を持つ住友が、過去の時代の大変革期にどのような対応をしてきたのかを見てみたいと思います。

1) 明治維新と住友

� 広瀬別子支配人改革

住友にとっての最大の経営危機は、明治維新の時に訪れました。開国に伴い、住友は欧米とのコスト競争にさらされ、そのために、組織、技術の近代化の必要性に迫られます。当時の総理事の広瀬宰平は、ドラスティックな改革を巨額の資金を使い、強力に推し進めました。

まず、御屋敷掛かりの廃止、買い物方、台所方の廃止、日記及び旧習の諸帳面の廃止、職人の食事給付を廃止し各自手弁当を持参させる等、江戸時代からの旧い慣習がどんどん廃止されました。

さらに、フランス人技師の採用、西洋機械の導入など、近代技術への投資が積極的に為されました。

合わせて、給与の減額(老分2割、支配1割半など)、不良資産の処分などのリストラ策も実施されたのです。

興味深いのは、当時の経営陣(広瀬宰平)は、銅山事業からの撤退を(住友家の利益を考えればこれが一番合理的だったらしいのですが)一切考慮の対象としなかったことであります。事業の継続は、本家(出資者)の利益より優先するものと信じられていたのです。

� 宗教と企業経営

しかしこのような近代化政策は、別子の伝統的な村共同体の生活様式の崩壊をもたらしました。

葛藤し模索・反抗する民衆が、新しい生活様式に移行することを助けるため、宗教家が積極的に活用されたといわれています。具体的には瑞応寺の住職などの禅僧による山民の教化政策です。経営に宗教的な色彩を導入するのは住友の伝統的なやり方といわれています。

� 広瀬宰平の引退

このように別子銅山の近代化とリストラに成功し、大きな功績を残した広瀬ですが、その引き際は決して立派なものではなかったといわれています。四方からの「広瀬降ろし」の圧力に屈したかたちで、折からの公害問題をはじめとする別子の危機を、そのまま甥の伊庭貞剛に託して住友を去ります。

広瀬追放の本当の原因はよくわかっていません。直接的には広瀬に対する内部告発(元理事が新聞発表した公開状など)がきっかけになっています。権力にあまりに長くとどまったためか、いろいろ公私混同が目立ったことは事実のようです。本当の理由はよくわかっていません。しかし、いったん明治維新の危機を脱して成長の軌道に乗った住友にとっては、広瀬のような真性の革新的企業者よりも調整タイプの経営者の方がより安全であったのだろうとの観測もあります。

伊庭貞剛は極端な精神主義を避けて、物心両面の調和を重視した人でした。彼は部下の書類に目を通さず判を押すことで有名でした。「信頼こそが人を育てる」が口癖の、きわめて日本的、住友伝統的な人物でありました。住友は再び伝統の調和主義に復帰することになります。

2) 第二次世界大戦が終わり

� 人材の離散を防ぐ精神「財閥解体にあたり五原則」

敗戦を迎え、住友は創立以来、数百年のうちで二度目の大きな転機を迎えることになります。財閥解体です。拡張しきった各方面の事業の収拾を図るとともに、人材の離散を防ぎ、それぞれに出来るかぎり仕事を与えること。そのために新しい事業を企画すること、これが大きな命題となりました。

具体的に方針が策定されますが、その方針の第一に「海外引揚者とその家族を援護すること」が挙げられました。次に、債権者に誠実に対処すること、住友の全事業を出来るだけ滅ぼさずに転換すること、将来、民族と国家の繁栄につながるように事業を運営することと続き、最後に「極力、累を住友家に及ばさないこと」が方針とされました。

ここでも従業員の職場確保が、本家(出資者)の利益に優先されていることがわかります。明治維新直後の広瀬宰平の考え方といい、戦後の処理方針といい、住友の経営理念は、明らかに「ステークホルダー理論」そのものであったと言えると思います。

� 商社の設立

その過程で、商社の設立が決断されました。遡ることは大正9年に、時の鈴木馬左也総理事が、人材と資金の不足を理由に、厳しく商事の禁止を申し渡したことは、まだ記憶に新しかったことでした。しかし当時、国土は焦土と化し、従業員の多数が生活の道を失おうとしているという未曾有の非常事態に直面し、住友は商事部門の開設を決断します(津田久『私の住友昭和史』)。

住友の従業員を重視するという伝統的な「家」的文化風土を考えますと、この決断は、家訓に違反するどころか、むしろ本当の意味での「住友」的決断であったと言えると思います。

3 営業の要旨二箇条をどう読むか

住友の「営業の要旨」のなかに、「従業員」についての記述がないことが指摘されることがあります。しかし、今まで述べてきたような住友の伝統を考えれば、次のような文章の解釈が可能であり、むしろそれが順当とあると思われます。
すなわち、第一条に「我が住友の営業は信用を重んじ確実を旨とし、以てその強固隆盛を期すべし」とあります。ここにある「その」とは、文章的には「住友」をさします。しかしその「住友」とは、決して「住友家」のみをさすものではなく、運命共同体である「家」としての住友、ステークホルダーズ全体をさすと考えるべきではないでしょうか。

現在の日本では、企業は誰のものか、企業のコーポレート・ガバナンスは如何にあるべきか、この問題について多くの議論がなされています。住友の経営理念は、まことに古くさく封建主義的な性格は濃厚に残してはいますが、企業のステーク・ホルダーは、資本家(住友家)であり、経営者(理事)であり、従業員(手代、雇人)である、三者の関係の三位一体であるとの原則を、繰り返し主張している点において、優れて今日的なものと考えます。株主の利益が全てとは決して考えられてきませんでした。同時に、従業員や経営者の利益だけを考え、株主の利益が無視されるということもありませんでした。この三者の力の均衡をうまくマネージするスキームが、それこそ住友の経営理念であると思います。

以上
 

1997年7月1日火曜日

コーポレートガバナンスと企業文化

コーポレートガバナンス(企業統治)に関する議論が盛り上がりを見せている。要するに企業は誰のものか、だれが企業をコントロールするのかという問題である。これがなかなかむつかしい。

日本には、企業の中長期的な利益や従業員との関係を、短期的な業績(配当)よりも重視する独特の企業統治の伝統がある。かつてはそれが日本企業の強みともいわれてきた。しかし経済のグローバル化が進行するなか、企業統治のスタイルも英米型へ変化させ、もっと株主が企業をコントロールしやすくせねばならないと主張されるようになった。

資金不足から一転し資金余剰の時代となり、伝統的な銀行システムの企業コントロールが、機能しなくなっていることも背景にある。

しかし一方、株主だけではなく、従業員、顧客、債権者などの多くの利害関係者(ステークホルダー)の意向を尊重するべきだとの考えもまだまだ根強い。経営のチェックのために企業の中核である中間管理職を経営に参加させることを考えるべきだとする意見すらある。

このように企業統治をめぐっては多くの考え方があり、なかなかコンセンサスは得られない。英米型がよいとか、ドイツ型はどうだという議論が多いが、なにせ多様化の時代である。一般論ではなかなか割り切れないのである。

日本では株主の利益が無視されているという。しかし日本株主総会は米国の総会より強い権限を持っていることはあまり知られていない。日本の取締役会は経営トップの意のままになっていると非難される。しかし日本の取締役会が社長を罷免した例も数多く挙げることができる。社外重役のメリットが強調される。しかし米国では社外重役システムが重役の法外な高給を生みだしたと批判されている。従業員の参加が制 度化され「進歩的」とされるドイツでは、逆にこの制度の評判はきわめて悪く、大多数の企業は従業員を経営に参加させる義務のない有限会社形態を選択する。

結局は隣の庭は常に美しく見えるということかも知れない。企業統治の構造はそれぞれの国で異なるものの、なかなか完全なシステムと言えるものはない。

重要な点は、企業統治とは本質的にはミクロ問題であり、個別の企業の伝統・文化に大きく左右されることである。

例えば、住友においては、出資者、経営者、従業員などのステークホルダー間の家(イエ)的な関係が、近代・現代に至るまで濃厚に残っており、これが明治の初期や第二次大戦後の危機を乗り切るうえで大きな役割を果たしたことが知られている。このような伝統は大切にすべきだろう。一方で、同じ日本でも全く英米的な企業統治スタイルが機能している会社もある。

企業の伝統、文化は多様であり、企業統治のやり方も多様であってよい。大切なことは、個々の企業が、借り物でない自前の企業統治のシステムを、常に工夫し、決意を持って機能させることだ。

(橋本 尚幸)